原点を思い出した日

先日、私が初めて言語障害の方と接したときの夢を見ました。

私が初めて言語障害の方と接したのは、高校生の時でした。私が通っていた高校はミッションスクールで、「奉仕」というボランティアを行う授業がありました。高校1年生か2年生の時に、老人ホームにボランティアに行きました。

 

1日老人ホームで色々なお手伝いをさせて頂いたのですが、レクリエーションの時間にみんなで歌を歌ったときのこと。

歌詞のプリントをじっと眺め、ぎこちなく僅かに口を動かしている車椅子に座ったおばあちゃんがいました。

私がそばに行って「一緒に歌いましょうか」を話しかけると、そのおばあちゃんはこちらを見て微笑み、頷きました。

私はおばあちゃんの隣で、歌詞を指さしながら歌いました。

おばあちゃんも一所懸命歌おうとしていましたが、「あー」「うー」とわずかに声が出るだけ。

私はその時、この方が話せない病気なんだと感じました。

歌が終わると、そのおばあちゃんは左手で私の手を握り、涙を溜めた目で私の目を見て、「あーうー」と言いました。

私には、それが「ありがとう」と言ったのだと分かりました。

 

この経験は、私が生まれて初めて言語障害の方と接し、言語障害について考えさせられ、胸に刻まれました。

後に言語聴覚士になるための勉強を始めた時に、あのおばあちゃんの言語障害が重度の失語症だったのだと知りました。

でも、その時は言葉のリハビリを行う職業があるとは知らず、どうすれば言語障害は治るのだろう、今の医学では治療はできないのだろうか…などと考えただけでした。

ただ、あのおばあちゃんのことが胸に残っていて、時折思い出していました。

 

高校3年生のある日、新聞の記事に「言語療法士、国家資格に」といった記事を見つけました。

それまで認定資格だった言語療法士の国家試験が行われるようになり、国家資格になる。それに伴い名称が「言語聴覚士」に変わる。現在、言語療法士は日本に3000人程度しかおらず、言語障害の患者数に対して少なく、全く足りていない。今後、増えていくことを期待するが、現状では言語療法士を置いている病院などが少なく、言語療法士が働ける環境が必要。といった内容の記事でした。

私は元々、将来は医療系の仕事に就きたいと思っており、看護師になろうと考えていました。

もう受験の準備も進んでいて、今更、進路を変更できるような状況ではありませんでした。

 

私が言語聴覚士になりたいと言ったとき、両親、特に父には強く反対されました。

反対された理由は、まだ世の中に認知されていない仕事に就いても就職口がないのではないか、というものでした。

親としては、子供の将来を想えば、当然の反対だったと思います。

でも、私はどうしても言語聴覚士になりたかった。だから、父に何度も説明し、お願いし、福祉の第一線で働いていた叔父(父の兄)にも協力してもらい、父を説得しました。

父が、私が言語聴覚士になることを許してくれたのは、叔父の「言語障害で苦しんでいる人はたくさんいる。言語聴覚士はとても大切な仕事だ。今後、きっと世の中に認知され、多くの人を救うことになる。」と言ってくれたことが大きかったと思います。

叔父にも、父にも、そして母にも感謝しています。

 

私が言語聴覚士になり数年経ったある日、父が「あが(お前)が言語聴覚士になるって言ったときは、どがんな(どんな)仕事やろか、就職できっとやろかって思ったばって、言語聴覚士になって良かった。おっが(俺が)言語障害になったらリハビリしてもらおうかね」と言ってくれました。涙が出るほど嬉しかったです。母も、私が言語聴覚士として働いていることを喜び、応援してくれていて、何となく少し親孝行できたなような気持ちになりました。

 

言語聴覚士になりたいと思ってから25年以上が経ち、言語聴覚士になって21年。

久しぶりに、言語障害の方と初めて接したときの気持ち、言語聴覚士になりたいと思ったときの気持ち、言語聴覚士になるために勉強した日々、働き始めた頃のことを思い出しました。

 

私が幸せだと思うのは、言語聴覚士という仕事が好きで、一度も言語聴覚士を辞めたいと思ったことがないこと。ずっと仕事にやりがいを感じられていること。言語聴覚士という仕事をしていることを、身近な人が喜んでくれること。

そして、何より、リハビリを受けて下さる方、そのご家族様の人生に寄り添えること、幸せのお手伝いができること。

 

みんなに「ありがとう」を伝えたい。あの日、私に「あーうー」と言って「ありがとう」を伝えてくれたおばあちゃんのように。